永遠の都ローマ――二千年を超える栄えある歴史と比類なき文化は、古代には最高神をまつる神殿がおかれ、現在はローマ市庁舎のあるカピトリーノの丘を中心に築かれました。
その丘に建つカピトリーノ美術館は、世界的に最も古い美術館の一つに数えられます。 同館のはじまりは、ルネッサンス時代の教皇シクストゥス 4 世がローマ市民に
4 点の古代彫刻を寄贈したことにさかのぼります。 |
本展は、カピトリーノ美術館の所蔵品を中心に、建国から古代の栄光、教皇たちの時代から近代まで、約 70 点の彫刻、絵画、版画などを通じて、「永遠の都」 と称されるローマの歴史と芸術を紹介します。 |
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'2023 9_15 「永遠の都ローマ展」 報道内覧会展示風景・ギャラリートーク、プレスリリース、「永遠の都ローマ展」図録の抜粋文でご紹介しています。 |
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・画像をクリックすると 【ご挨拶・特別解説】 「本展監修者:クラウディオ・パリージ=プレシッチェ氏(ローマ市文化財監督官)、加藤 磨珠枝氏(美術史家、立教大学文学部教授)、【展示・見どころ解説】 本展担当学芸員:小林 明子(東京都美術館学芸員)」 のレポートがご覧いただけます。 |
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・No.25 《カピトリーノのヴィーナス》 2 世紀 大理石 高さ 193 cm サン・ヴィターレ聖堂付近より出土 カピトリーノ美術館蔵 |
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・No.25 《カピトリーノのヴィーナス 》 奇跡の初来日。 古代ギリシア最大の彫刻家プラクシテレスの女神像(前 4 世紀)に基づく 2 世紀の作品。 ヴィーナス像に曲形的な恥じらいのポーズをとる。 ミロのヴィーナス(ルーヴル美術館)、メディチのヴィーナス(ウフィッツィ美術館)に並ぶ古代ヴィーナス像の傑作として知られています。(東京会場限定展示) |
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2000 年の美をめぐる |
「永遠の都ローマ」 展覧会の見どころと展示構成 |
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本展はカピトリーノ美術館の所蔵品を中心に、建国から古代の栄光、教皇たちの時代から近代まで、約 70 点の彫刻、絵画、版画等を通じて、「永遠の都」 と称されるローマの歴史と芸術を紹介します。 |
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カタログ| Catalogue |
'2023 9_15 「永遠の都ローマ」 報道内覧会展示風景・ギャラリートーク、プレスリリース、「永遠の都ローマ」図録の抜粋文でご紹介しています。 |
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【 第 1 章 ローマ建国神話の創造 The Creation of Rome's Foundation Myth 】 |
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本章ではローマのシンボルともいえる作品 《カピトリーノの牝狼》 を出発点として、古代ローマの建国を伝える伝承や神話をたどる。 前 753 年 4 月 21 日、初代ローマ王ロムルスにより建国されたローマの起源については、ウェルギリウスの叙事詩 『アエネイス』 のなかで、トロイアを脱出し、苦難の末にイタリア半島に上陸した勇者アイネイアスの子孫たちの歴史として語られている。 放浪後、アイネイアスはラウィニウムを建設し、その子孫の一人ロムルスがローマ建国の王となった。 彼の息子ユルスはユリウス氏族の始祖とされ、この氏族の末裔であるユリウス・カエサルから後を継いだのがオクタウィアヌス、のちのアウグストゥス(在位前 27-後 14) である。 ローマ建国エピソードの代表格といえるのが、軍神マルスと巫女レア・シルウィアのあいだに生まれた双子ロムルスとレムスに乳を与え育てる牝狼の物語である。 古代の文献によれば、当時のローマには有名な牝狼の彫像が 2 点安置されていた。 一つはカピトリーノの丘にあったもので、前 65 年に落雷を受けたことが伝えられる。 もう一つはパラティーノの丘の南西ふもとにあったことが知られるルペルカル洞窟で、その前に植えられていた生命の象徴イチジクの聖樹の下で、双子の養い親になる羊飼いファウストゥルスが二人を発見したと信じられたことから、同所はローマの起源を象徴する場所として、共和制時代には聖域となっていた。 |
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左・No.1 《カピトリーノの牝狼(複製)》 20 世紀(原作は前 5 世紀) ブロンズ 83 x 140 x 61 cm ローマ市庁舎蔵 / ・No.4 《L.ユリウス・エウヘメロスの納骨碑》 1 世紀後半 カッラーラ産ルナ大理石 納骨碑: 44 x 34.5 x 30 cm、蓋: 13.5 x 27.5 x 25.5 cm サン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂付近、オスティエンセ通り沿いで発見された墓所にて発掘 カピトリーノ美術館分館 モンテマルティーニ美術館蔵 / 右・No.6 《ティベリウス・クラウディウス・ファウェンティヌスの祭壇、通称カザーリ家の祭壇(複製)》 1933-37 年(原作は祭壇: 2 世紀後半、銘文: 3 世紀以後) 雪花石膏 89 x 45 x 40 cm 原作はローマ出土 ローマ文明博物館蔵 / ・No.5 《豹と猪の群像》 1 世紀 ペンテリカス産大理石 70 x 120 x 43 cm 1884 年、ポルタ・サン・ロレンツォ付近にて発掘 カピトリーノ美術館分館 モンテマルティーニ美術館蔵 |
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左・No.1 《カピトリーノの牝狼(複製)》 オリジナルの前 5 世紀のブロンズ彫刻は、カピトリーノ美術館に所蔵されている。 双子の像は本来、付されていなかったが、作品がカピトリーノの丘に運ばれた後、ルネサンス期に付け加えられた。 双子像の追加により、ロムルスとレムスに乳を飲ませる牝狼の群像彫刻に変えられた。 これはローマ建国神話のうち最も有名なエピソードの一つを表している。 のちに都市ローマの創設者となる二人の乳児は、ウェスタ神殿の巫女レア・シルウィアと軍神マルスの間に生まれた。 テヴェレ川に捨てられたところ、一匹の牝狼が乳を与えて双子の命を救う。 / ・No.4 《L.ユリウス・エウヘメロスの納骨碑》 納骨碑は 1 世紀後半のものとみられ、銘文からわかるとおり、L・ユリウス・エウヘメロスなる者が 65 歳で死去した際、彼の 「解放奴隷」 の一人であったL・ユリウス・エレウテルスという名の者によって捧げられた。 グロッタ(洞窟) のような形状を呈する蓋の中央の半円形部分には、牝鹿に養われた幼きテレポスの授乳にまつわる神話の一場面が表わされ、その両脇に振り返る 2 羽の鷲がいる。 / 中・No.6 《ティベリウス・クラウディウス・ファウェンティヌスの祭壇、通称カザーリ家の祭壇(複製)》 祭壇の 4 面のすべてが、複数の神話主題を表わす場面で豊かに装飾されている。 正面は 「ヴィーナスとマルスの密通」 の場面、右側面は 「パリスの審判」 が、背面にはトロイア戦争のエピローグとなるローマ神話が表わされている。 ウェスタ神殿の巫女レア・シルウィアは眠っていたところをマルスに襲われ、この神との交わりから、双子のロムルスとレムスが生まれたため、若き巫女はやむなく二人を籠に入れてテヴェレ川に流した。 その籠を見つけた羊飼いのファウストゥルスが見つけた場所は、のちにローマ建国の地となる。 双子は牝狼に乳を与えられ、成長して力をつけた双子は王位簒奪の復讐を遂げ、都市ローマを建設することになる。 / ・No.5 《豹と猪の群像》 ほぼ等身大のこの群像彫刻は、ローマ時代に円形闘技場で行われていた野獣の格闘をに着想したものである。 |
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【 第 3 章 美術館の誕生からミケランジェロによる広場構想 From the Birth of the Capitoline Museums to Michelangelo's Project for the Capiroline hill 】 |
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カピトリーノ美術館の起源は、1471 年に教皇シクストゥス4世が、ブロンズ彫刻群をローマ市民に寄贈、古代ローマ建国神話の 《カピトリーノの牝狼》 など 4 点をカピトリーノの丘に移し展示した。 シクストゥス4世は、ルネサンス教皇の典型的ともいえる存在で、かのシスティーナ礼拝堂を造営し、多くの芸術家をローマに招聘して初期ルネサンス美術をローマで開花させた。
古代ローマ以来、聖なる丘として神殿が置かれ、政治的、宗教的な中心地だった。 この象徴的な場に、古代ローマ建国神話を体現する 《カピトリーノの牝狼》 とローマ帝国にキリスト教をもたらした コンスタンティヌス帝 の巨大肖像を置くことは、ローマ市民の自尊心を鼓舞すると同時にシクストゥス4世が古代ローマの宗教的、世俗的権威の正当な継承者であることを示した。1537 年、教皇パウルス 3 世(在位 1534-49) は教会改革を積極的に推し進める傍ら、ローマの壮麗さを取り戻すため、ミケランジェロにカンピドリオ広場を再生させる整備計画を依頼した。
丘のふもとから広場へとのぼる大階段の設計もミケランジェロが行ったが、彼の死後、17 世紀にようやく完成した。 また、ミケランジェロがデザインした楕円形広場の星型舗装が実現したのは
1940 年になってからのことである。 とはいえ、カンピドリオ広場の全体構想は間違いなくミケランジェロのものであり、彼の都市計画の傑作の一つに数えられる。 |
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左・No.33 トスカーナの画家( 16 世紀) 《ミケランジェロ・ブオナローティの肖像画》 1535 年以降 油彩、板 64 x 50 cm カピトリーノ美術館 絵画館蔵 / 中・No.40 フィリッポ・デッラ・ヴァッレ(フィレンツェ 1698-ローマ 1768) 《教皇クレメンス 12 世》 1735-40 年 テラコッタ 36.6 x 16 x 9.5 cm ローマ美術館蔵 / ・No.36 ヨハネス・リンゲルバッハ(フランクフルト・アム・マイン 1622-アムステルダム 1674) 《カンピドリオの石段(コルドナータ)の情景》 1667 年 油彩、カンヴァス 60 x 74 cm ローマ美術館蔵 / ・No.35 アゴスティーノ・タッシ(ポンツァーノ・ロマーノ 1578-ローマ 1644) 《カンピドリオ広場に立つ五月祭のための宝の木》 1631-32 年 油彩、カンヴァス 173 x 119.4 cm ローマ美術館蔵 / ・No.41 《河 神》 3 世紀半ば 大理石 49 x 90 cm カピトリーノ美術館蔵 |
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左・No.33 《ミケランジェロ・ブオナローティの肖像画》 肖像画の作者は不明だが、1766 年以降のカピトリーノ絵画館の目録とガイドでは、「サルヴィアーティ作と思わるミケランジェロ・ブオナロータ (原文ママ) の肖像画」 として記録されている。 / 中・No.40 《教皇クレメンス 12 世》 右隅に彫られた紋章から、この小さなテラコッタ像で表わされた教皇が、フィレンツェのロレンツォ・コルシーニ、つまりクレメンス 12 世であることを突き止めた。 クレメンス 12 世は 1730 年に教皇に選出されて以降、10 年間の在位中に、数々の重要な公共事業を推し進めた。/右・No.36 《カンピドリオの石段(コルドナータ)の情景》 は、画家が 1644 年から 1650 年にかけて滞在したローマから帰国後、オランダで描いたものである。 この広場は教皇パウルス 3 世が命じたカピトリーノの丘の再開発の一環として、ミケランジェロ・ブオナローティが設計したものである。 / ・No.35 《カンピドリオ広場に立つ五月祭のための宝の木》 本作は、2001 年ロンドンのクリスティーズで競売にかけられた後、2003 年にローマ市が購入したものである。 本作は、ローマで春の訪れを祝う五月祭におけるカンピドリオの様子を表わしており、この祝祭の折には、広場に宝の木(元来は聖なる木メイポール)が立てられた。/ ・No.41 《河 神》 この小像は、16 世紀にはヴァティカン宮のベルヴェデーレの中庭にあったが、1566 年に教皇ピウス 5 世によってパラッツォ・デイ・コンセルヴァトーリに寄贈されたものである。 |
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【 第 5 章 芸術の都ローマへの憧れ―空想と現実のあわい Rome as a Capital of Art: Between Fantasy and Reality 】 |
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壮麗な古代遺跡や教会建築の宝庫であるローマの都は、17 世紀以降グランド・ツアーなどを介してイタリア内外の芸術家たちの芸術的霊感源となった。 また、18 世紀前半に発掘されたポンペイとヘルクラネウムの古代遺跡は、ヨーロッパにおける古代への関心、美術への熱狂をさらに高めた。 中世、ルネサンス期から、古代ローマの記念碑、トラヤヌス帝記念柱は特権的な地位を占め、芸術家たちの創造力を刺激し、近代には多くのヨーロッパ君主(主にフランス人)
を魅了した。 1861 年から 1862 年にかけてナポレオン3世(在位 1852-70) は、教皇ピウス9世(在位 1846-78) に依頼して、実物から母型をとった原寸大の石膏レプリカ(No.60、61)
をヴァティカンの優れた鋳型職人に制作させた。 本章の最後では、18 世紀後半にカピトリーノ美術館パラッツォ・デイ・コンセルヴァトーリの 「玉座の間」 で計画された室内装飾プロジェクトを紹介。
この部屋の壁を飾るタペストリーのために1764 年から 1766 年にかけてドメニコ・コルヴィが制作した下絵 4 点のうち、3 点が本展に出品されている。
原作はそれぞれ 2 世紀の古代彫刻 《女神ローマの座像(ローマ・チェージ)》 とピーテル・パウル・ルーベンス作 《ロムルスとレムスの発見》)、
ニコラ・プッサン作(?) 《カミッルスとファレリイの教師》 で、これらの作品は、当時のローマにおいて、古代のオリジナルだけでなく、ルーベンスやプッサンなどイタリア以外の優れた芸術家たちの作品が、古代ローマの精神を伝える美術として正当に評価されていたことの証明でもある。 |
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左・No.59 《トラヤヌス帝記念柱、1/30 縮尺型》 1960 年代(原作は 113 年) 雪花石膏 100 x 16 x 16 cm ローマ文明博物館蔵 / 中・No.67 《マイナスを表わす浮彫の断片》 前 1 世紀末-後 1 世紀 ペンテリカス産大理石 143.5 x 74 x 2.5 cm ローマ、ニンファエム・アレクサンドリ周辺、もしくはヴィーニャ・マニャーニ出土 カピトリーノ美術館蔵 / 右・No.60 《モエシアの艦隊(トラヤヌス帝記念柱からの石膏複製)》 1861-62 年(原作は 113 年) 古色加工を施した石膏 140 x 222 x 13 cm ローマ文明博物館蔵 / ・No.61 《デケバルスの自殺(トラヤヌス帝記念柱からの石膏複製)》 1861-62 年(原作は 113 年) 古色加工を施した石膏 143 x 217 cm ローマ文明博物館蔵 |
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左・No.59 《トラヤヌス帝記念柱、1/30 縮尺型》 この記念は、トラヤヌス帝が 101 年から 102 年と 105 年から 106 年の 2 度にわたるダキア戦争で勝利し、ダキア属州(現在のルーマニア) をローマ帝国が獲得したことを記念している。 柱身表面全体には、長さ約 200 メートルにわたって螺旋状に連続する浮彫が施され、2 度にわたる戦闘の様子が詳細に描かれている。 挿絵入りの物語のごとく、行軍や、宿営地、道路、橋、要塞の建設、凄惨な戦い、宗教儀式、兵士への演説などの場面が次々と登場する。/中・No.67 《マイナスを表わす浮彫の断片》 描かれているのは、酩酊の神ディオニュソス/バッコスに従う女性信奉者マイナスの一人で、彼女は子ヤギを殺したところである。 このディオニュソスの女性信奉者は、恍惚として踊り耽る瞬間にある。 振り上げた右手には生贄のナイフを握りしめ、左手には子ヤギの死骸を半分を掴んでいる。 / 右・No.60 《モエシアの艦隊(トラヤヌス帝記念柱からの石膏複製)》 トラヤヌス帝とその将校、軍旗を携えた兵士たちを前に、名誉ある船に食料を積み込もうとするローマ軍兵士たちの生き生きとした活動が、河川港で展開している。 これらの船は、ドナウ川を巡回し、ダキア駐留軍への物資を供給していたモエシア艦隊(現在のセルビア) に所属する。 / ・No.61 《デケバルスの自殺(トラヤヌス帝記念柱からの石膏複製)》 軍事作戦の末、最後の戦いに勝利するローマ軍の場面である。 ダキア人の王デケバルス(在位 87~106) は、森の木々のあいだを馬で逃げる自らの軍勢に囲まれている。 ふたりのダキア人がすでに追っ手に殺され地面に倒れ、王は今や途方に暮れており、囚われの身にならないよう、ひざまずき、ダキアの武器である曲刀で自分の喉を切って自ら命を絶とうとしている。 本作を含むトラヤヌス帝記念柱の一連の複製を求めたナポレオン3世は、このモニュメントを皇帝の権力の象徴と見なし、自らを重ねようとしたのだろう。 |
画像をクリックすると 本展監修者 クラウディオ・パリージ=プレシッチェ (ローマ市文化財監督官)& |
カピトリーノ美術館は、ローマの7つの丘の一つ、カピトリーノの丘(カンピドリオの丘ともいう) に建つ。 この丘は、古代にはユピテル、ユノー、ミネルウァをまつる神殿がそびえ、古代ローマの栄光を象徴する聖域だった。
カピトリーノ美術館のはじまりは、1471 年に教皇シクストゥス4世が 《カピトリーノの牝狼》 をはじめとする 4 点の古代彫刻をローマ市民に返還/寄贈したことにさかのぼる。
これらを核に古代遺物や古代彫刻などが加えられ、1734 年、教皇クレメンス12世の時代に一般に向けて公開されるようになった。 18 世紀半ばには絵画館が設立され、さらには陶磁器やコインが加わり、唯一無二のコレクションが築かれた。 |
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(「カピトリーノ美術館」の図録や展示パネルよりの抜粋文) |
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16 世紀の第 2 四半世紀に、ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世(在位 1534-49) の意向を受け、1550 年の聖年を目指してカピトリーノの丘全体の再整備計画が開始された。 ミケランジェロに委ねられた計画案では、石畳の広場の整備、パラッツォ・セナトリオとパラッツォ・デイ・コンセルヴァトーリの修改築、サンタ・マリア・イン・アラチェリ聖堂 の脇に記念碑的な舞台袖を建設することが予定された。 計画が始まってすぐに、広場のこの部分に 3 つめの、「パラッツォ・ヌオーヴォ(新館)」 とよばれる建物を新築する要望が生じ、のちに古代彫刻を展示する最初の近代的な美術館となった。 カンピドリオが古代から担う歴史的な権威を取り戻すべく、1513 年には早くも、パラッツォ・デイ・コンセルヴァトーリの回廊の前面にナイル川とティグリス川(後年にテヴェレ川に改変される) を表わす 2 体の巨大な河神像が置かれた。 クイリナーレの丘のコンスタンティヌス帝の浴場跡から発見されたこれら 2 体の彫像は、16 世紀半ば頃にパラッツォ・セナトリオの下に移され、舞台装置のような新しい大階段に組み込まれた。 1538 年にラテラノ教皇宮から 《マルクス・アウレリウス帝騎馬像》 がこの丘にもたらされ、ミケランジェロが構想した新たな空間の中核となった。 この選択により、広場全体の将来の姿が決定されたといえよう。 |
お問合せ:tel 050-5541-8600(ハローダイヤル) |
主催:公益財団法人東京都歴史文化財団 東京都美術館、毎日新聞社、NHK 、NHKプロモーション |
参考資料:「永遠の都ローマ展」図録、 報道内覧会、PRESS RELEASE & 報道資料 、展示パネル他。 |
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